若井克子著「東大教授、若年性アルツハイマーになる」を読む

若井克子著「東大教授、若年性アルツハイマーになる」を読む

カリフォルニア大学の有名な研究で、認知症になりやすい危険因子として加齢、糖尿病、運動不足、喫煙に加え、「低教育」という項目があります。私は常々、これは果たして現在の日本の状況にもあてはまるデータなのかと疑問に思ってきました。多民族国家や貧富格差の大きい地域では義務教育すらままならないでしょう。しかしある程度標準化した日本の環境下で、教育水準とアルツハイマー発症率に相関があるのかは疑問です。

認知症外来を長くやっていると、アルツハイマーの患者さんの中には大変立派な経歴を持った方々も多くおられます。ノーベル賞学者の大学時代の親友という方もいます。私の義母は多趣味で快活で人望も厚く、従業員への深い気配りもできる立派な人物でしたが、アルツハイマーが進行した末に亡くなりました。私の事を運転手さんと間違えるようになり、徐々に妻のことも認識できなくなっていく様は本当に悲しいものでした。しかしそれでも80歳を超えていましたので、私たちも静かに受け入れざるを得ませんでした。若井先生の様に国際的要職にあった方が、働き盛りの54歳で若年性アルツハイマーを発症したその理不尽さ、無念さとは比べ様もありません。医師は自分の専門領域の病気にかかることをとても恐れますが、先生も認知症に対する怯えは他の医師よりも何倍も強かったのではないかと推察します。

高齢で発症するアルツハイマー型認知症はあまり物忘れの自覚や病識がないのが特徴です。ご家族がかなり心配していても本人は比較的あっけあかんとしています。しかし、若年性の場合は、会議の時間を間違えたり、道に迷ったりと今までの自分とは違うことを徐々に認識してきます。脳外科医であった若井先生が、知っているはずの漢字が書けない、書類が作れない、講演ができない、道に迷う、運転を間違えるといった諸症状を認識した時、どれほど心細かったことか、身につまされる思いがします。2005年(58歳)、先生が琉球大学からの講演を断った頃の症状をこの本書内容から類推しますと、すでに記銘力障害、実行機能障害、失行、失認、失語、空間認知障害が軽度ながら出現しており、ぎりぎりまで自分を認知症だと思いたくないという葛藤の中にあった先生の苦しさを感じます。退職されて59歳から沖縄へ移住されてからは夫人の献身的な日々がつづられています。

畑仕事やお二人で読み進めた英語本の読書会はとても貴重な時間だったようですが、アルツハイマー型認知症はとにかく「めんどくさいこと」を避けようとする病気です。いくら最高のインテリジェンスを持った先生でもそこからは逃れられず、長続きはしなかったようです。先生がお知り合いの先生のお誘いを受けて二人で病棟を回診した際、「やっと居場所ができた」と言われたその言葉に強く動かされました。認知症医療をする中で、その方が最も輝いていた時代の事を話す時が一番イキイキしているのをいつも目にしていますので、それをないがしろにしてはいけないと改めて感じさせられました。

そして驚くべきことに先生はその後2013年(66歳)まで、夫人のサポートを受けながら各地で講演やテレビ出演をして、若年性アルツハイマー型認知症の啓蒙をしておられます。日本最高峰の学者であっただけでなく、敬虔なクリスチャンであった先生は、地位や能力を失った自分の姿をさらけ出しながらも、それを語り続ける事で誰かに勇気を与えようとされたのでしょう。どんなキャリアを持った人にもアルツハイマー型認知症は発症します。それが早く発症すればするほど本人も家族も長い葛藤の時を過ごさなければいけません。私たちの誰もがこのお二人の様に最後まで矜持を失わず、現実に強く向き合って生きていけるわけではありませんが、本書から本当に多くの事を学ばせていただきました。ご冥福をお祈りいたします。

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